主要还是商品经济发展所带来的土地经济和货币经济的冲突,动摇了幕府统治的根基。

中世以前的日本封建社会,封建领主除了收取谷物地租之外,还收取手工制品作为年贡,此外自家也组织生产手工制品,很大程度上处于自给自足的自然经济状态下。但江户时代则不同,大名们一般在收取年贡后,去掉自己和家臣所需部分,其余都要出售来换取货币,购买其他生活用品。家臣和武士从领主那里领到的俸禄也是大米,最后也要换成货币,这就促进了货币经济的发展。

同武士阶层一样,农民最后也被纳入商品经济中。随著生产力的发展与社会分工,农民对自然经济的范围逐渐缩小,因为农民差不多要将十分之四五的年贡上缴给领主,在努力提高生产集约化的同时,生产手工业商品也成为另一种维持生活的方式。各地区的名品生产和手工业制品种类繁多,颇具地方特色,比如京都的酱油,摄津的伊丹酒等等。各地手工业发展也为商品经济提供了交换的可能性。

随著商品经济的发展和全国性市场的形成,人们对货币的需求逐渐提高。德川幕府控制了全国主要的矿山,依靠铸造庆长金银币作为流通货币。江户时期的货币体制,是西国地区的通货银和东国地区的通货金并存的双重体系。随著市场的繁荣,货币数量供应不足,金银比例也开始失衡。1695年德川纲吉接受了荻原秀重的建议,下令重铸金银含量较低的劣质元禄金银币。通过改铸货币幕府获得巨大经济收益,货币的流通量增加也促进了市场繁荣。但是通过发行劣质货币的行为也可看出此时幕府面临巨大的财政危机,传统重农抑商政策受到巨大挑战。

传统社会商人是最低贱的,但全国性市场下,市农工不参与商业活动的话,商人就把持了货币经济的主体,开始在经济生活中占主导地位。商人地位虽然低下,却在社会生活具有很大势力和财富。在江户,大阪,京都等地,也出现了鸿池,三井,住友等商业家族,从事商业和金融活动的机构也逐渐完善。幕府为了将年贡米出售来换取钱财和奢侈品,纷纷设立年贡米销售点和藏屋敷(仓库),并承包给特权商人管理。此外,还有札差(中介)为御家人和旗本提供服务。商人们通过缴纳冥加金(商业税),运上金的方式换取幕府对商业行会的庇护,从而垄断市场价格牟取暴利。富裕起来的商人也通过向幕府和大名发放高利贷来控制幕府的财政命脉,有些商人还利用资金成为荒田承包商,成为土地所有者,攫取更大利益。

由此可见,虽然江户时期仍然主要是封建经济,生产关系却与商品经济密不可分,已经不是纯粹的土地经济,具有了货币经济的特征。幕府和诸大名在收取上依赖土地上的年贡,但在消费上完全落入到货币经济中。为了维持封建统治关系,大名们无法将自己从土地经济中脱离开来,因为离开了土地和农民,等于丧失了武士阶层的地位。但在商品经济大发展的浪潮中固守土地经济带来的固定收入,最终的结果必然是入不敷出。可以说商品经济从根本上腐蚀了幕府和大名赖以生存的土地经济基础。这一矛盾的结果弱化了与封建土地相关联的阶层的经济实力,商人阶层实力不断增强。

在商品经济下,武士们的生活费用不断加大,同时,年贡米在国内市场的商品率比重不断下降,不再是主要流通产品,米价不断下跌,不再是能决定其他商品价格基础的商品。再加上德川纲吉时期发行大量劣质货币使得流通的货币增多物价上涨。最终导致依靠土地经济的幕藩领主所拥有的财富锐减,面临财政危机,最后不得不向商人借贷。在德川吉宗就任将军时,幕府甚至已经无力发放俸禄给旗本和御家人了,武士阶层日益贫困,世风日下。一些下级武士不得不与商人通婚出卖武士家系,或者被迫从事教师,医生,手工业者或是小商贩,有的干脆去做商人的养子。

由于经济过多的集中到商人手中,武士只能通过压榨农民提高地租来缓解贫困。此外,商人的势力也通过发放贷款,经营商品和土地投资的方式侵入到农民阶层中来。农民对商品粮的依赖性越来越强,许多农民依靠购买粮食而不是自给自足度日。封建社会的基层构造——农村经济受到巨大冲击,幕府的政治,社会组织基础也开始动摇。直接表现就是离村,溺婴和百姓一揆逐渐增多。再加上频繁的自然灾害,农业歉收,商人囤积居奇,米价上涨,农民阶层生活日益困苦。各地接连爆发一揆。1837年爆发的大盐平八郎起义影响力波及全国,被推崇为民权的开端,极大的鼓舞了各地武士的武装倒幕斗争。

豪农豪商逐渐成为幕藩体制强有力的反对派。他们拥有大量财富,却无法参与到政治生活中。幕府频繁的向商人征收额外赋税,而且通过颁布《弃捐令》免除武士对商人的各种债务。商人稍有不慎就会被幕府下令没收财产。所以在幕末的倒幕运动中,豪农豪商虽然无法直接领导运动,却很容易地参与进来。比如酿酒业出身的豪商藤田传三郎就通过参加高山晋作的奇兵队来为倒幕派提供资金支持。从事贩卖军火业务的大仓喜八郎在戊辰战争帮政府军置办物资和军火。作为回报,新政府会利用官僚在政治上为其提供便利和庇护,使他们从政商变成财阀。

江户时代的货币经济——商业和高利贷资本,原本是以土地经济——封建的生产关系为基础,依存著封建经济发展。在这个过程中,商人依靠与幕藩领主直接或间接的关系,扩充了自己的实力,破坏了土地经济和货币经济的平衡,对封建生产关系起到了破坏作用。随著货币经济的比重不断增加,商人掌握了大量财富,以土地经济为财政支柱的幕藩体制最终崩溃。换言之,幕藩体制已经制约了生产力和商品经济的发展,必须要通过改革解决制度问题。

首先是德川吉宗实施的享保改革。改革鼓励开垦新田,推行新的农业政策,改革物价整顿通货,管制商业抑制不正当利益的取得政策,取得了一定实效,德川吉宗也被称作中兴将军。但是许多改革措施,比如要求各藩大名上缴幕府贡米的「上米令」、允许武士赖账不还的「相对济令」和命令债权人将抵押过期的土地还给农民的「流地禁止令」,都因大名、商人和新兴地主的反对没有贯彻到底,提高贡租的「定免法」和对工商业的严格统制引起了农民和町人的强烈不满,没有从根本上解决危机。

十代将军德川家治上台后,幕府权力被田沼意次所垄断。他的改革措施比较特别,是积极利用商品经济来改善幕府财政。首先,鼓励设置垄断性的工商业行会组织「株仲间」,通过收取商业税「冥加金」来增加幕府收入。其次,发行统一货币,扩大对外贸易。最后,鼓励商人开垦新田,同时准备开发虾夷地区。虽然田沼意次的改革顺应了商品经济的发展,缓解了财政危机,却无法真正阻止幕府走向崩溃。他的政策推动了商业资本的发展,只会加剧幕藩体制的问题暴露。贫富差距加重让-底层武士和平民生活动荡不安,持续6年(1782--1788)的天明天明饥馑使得农民和市民暴动在各地发生。此外,田沼意次父子独断朝政,贿赂公行,也引起了松平定信等保守派的不满。随著德川家治去世,田沼被迫辞职,改革随之终止。

松平定信上台后,实行「宽政改革」。这次改革依然延续享保改革的方针:稳定农业的同时,抑制商品经济的发展。幕府三次颁布归农令,命令进入江户的农民回乡务农,由政府提供口粮和资费,并可提供土地。,同时颁布围米令,命令大名储备粮食,以备荒年。设立「江户町会所」,将有财产的町人和地主上缴的市政费用的一部分储存起来,购买米谷存入「义仓」,多余部分低息借给穷困的町人和武士。此外,幕府取消了田沼时代给予商人的垄断权,废除行会,免除穷困武士的债务并打击高利贷资本势力。这些政策一定程度上缓和了社会矛盾,但严厉的统制和财政紧缩政策引起了将军和社会各阶层的不满,1793年,松平定信被迫辞职,宽政改革受到上下各阶层的抵制,就此失败。

然后就是第十二代将军德川家庆任命的首席老中,水野忠邦实行的天保改革。改革从肃正风纪,节俭禁奢入手,严禁买卖高价物品,通过这种方式强行降低物价。然后,幕府向鸿池等豪商收取「御料金」用于维持幕府的开支。在农业方面,再次颁布人返令,敦促市民归农,有意禁止农民进入城市,鼓励垦荒储粮,还是延续前两次以农为本的方针。为了加强幕府统治,削弱地方大名,幕府还颁布了「禁止藩国专卖令」和「上知令」,禁止各藩的商品专卖并要求大名和旗本把江户和大阪周围的土地上缴为幕府直辖地。这些改革又遇到了很大的阻力,「株仲间解散令」引起了商品价格混乱,使得商业萧条物价上涨,只能终止,「禁止藩国专卖令」和「上知令」遭到各大名和旗本的强烈反对而撤回。1843年,水野忠邦被幕府认为独断专行,罢免了老中职务,改革宣告终止。

总之,天保改革内容始终没有超越传统的重农抑商的范畴,解决不了商品经济发展带来的问题。建立在土地经济之上的的幕藩体制,不改革制度而用强制的手段抑制商品经济的发展,只能进一步激化社会矛盾。其次,幕府内部争权夺利,意见不一,改革缺乏连贯性,该且由于改革的诸项举措涉及利益重新分配,引发了社会各阶层的抵制。

此外幕府直辖地,本是日本商品经济最发达的地方,但在幕藩体制的束缚下,矛盾最为激烈。而且直辖地分散在日本各地,幕府派去的代官又很少,导致统治力相对较弱(有的地方干脆没派官员,因为幕府不知道这块地方归幕府管)。1842年,近江甲贺郡爆发了反对幕府检地的一揆,虽然水野忠邦初始态度强硬,但最终还是屈服了。这说明幕府的地方统治力已经十分薄弱,无法将改革贯彻到底了。与此同时,为了克服危机,萨摩,长州,土佐,佐贺等外洋藩却取得了成功的改革,成为了实力较强的「雄藩」,幕府和外样此消彼长的实力对比也为幕末的倒幕运动奠定了基础。


谢邀,这个问题是一个专业性极强的老问题,涉及到经济学、财政学、江户时代幕藩体制的内在矛盾及相关史料。所以凭我的能力只简单概括几个原因及几个注意点:

将幕府财政的崩坏归因于统治阶级的骄奢是十分浅显的说法。实际上,占统治阶级绝大多数的中下层武士在江户中后期已经节衣缩食至与平民无异。高层的生活水准也不得不经常节俭。财政的崩坏伴随了幕府二百年,仅这一条是无很强的说服力的,而幕府一时的节俭与贤明仅仅只能略缓解幕府恶化的财政危机,却无法改变这一趋势。

相较于上文的原因,幕府作为实际上的全国政府,其收入与支出不成比是一个更重要的原因。德川幕府的财政收入主要来源于其直辖领地的租税收入,若细分则大致可以分为年贡、口米、三役、运上和小普请金。幕府每年的征税约为米50-80万石,金30-60万两,银2万贯。对于地方大名,一般是仅征发军役。

而幕府每年需要支出大笔款项,包括因天灾减免及救助、军费及全国建设均需要幕府投入大笔资金。而幕府一年的定额支出(为维持幕府正常运转的费用)则需要金十万两以上。而定额之外的支出更加可怕。仅岛原之役,幕府耗资就达到金398000两,相当于一年的收入。随著时间推移,所需幕府开销之处只会多而不会少。可以说幕府在财政收入方面并不是一个全国性的中央政府, 而只是一个占据全国近七分之一领地的超大型地方政府, 但在支出上则完全是中央政府性质的。

但深层次的原因是经济发展的结果。随著佐渡矿山的枯竭与日本金银的外流,幕府的财政赤字不断扩大。新田的开垦在17世纪后陷入停滞,也就令幕府的税收增长陷入停滞。仅凭日本列岛的自然经济不足以支撑幕府的消耗,为此幕府以货币贬值缓解危机,却造成了大幅通胀,导致后来的财政进一步恶化。

建立在自然经济基础上的幕府,在商品经济不断发展的情况下,形成了对商业的强大阻碍。商业的发展始终未能改变幕府以实物征税为主的成制。1809年,幕府向江户所收商税仅八千余两,与当时的经济规模极不成比。而为了维护武士的利益,幕府默许了大量坏账的产生,进而损伤了商业。为维护因商品经济发展而衰落的乡村,幕府禁止农民异地做工,最后则导致了乡村出现大量失地农民,也深深地动摇了幕府的统治基础。德川幕府无法适应时代的潮流,顽固地维持幕藩体制,最终让财政危机成了死局。


中国民间人士往往将国家的兴衰原因归结为天灾或者一些主观性的:

  • 社会奢靡之风盛行
  • 官员腐败堕落
  • 最高统治者失德、昏庸无道、宠信奸佞、荒淫无度、暴虐残酷、优柔寡断等等

这些原因也不能说错,但是许多问题的解决是充满了技术性挑战的,在嘴上可以用一句简拔人才、励精图治、勤政爱民、远离奸佞小人、开源节流、殖产兴业、明正法律、重用XX等等来回答,实践中并不是你想解决就能解决的,朱镕基时代中央就已经明白房地产泡沫的危险了,可是用了近20年的时间化解了吗?

关于江户幕府财政困难原因的观点也是五花八门,以下列举几篇参考文章吧!

德川幕府后期日本财政改革的正当性悖论-中国社会科学网?

ex.cssn.cn图标日本货币史:德川幕府时代的货币改铸、贬值掠夺、物价暴涨?

c.m.163.com图标[博客讨论室第12期]荻原重秀的货币改铸改革(作者:本博客管理员)-张五常-财新博客-新世纪的常识传播者-财新网?

zhangwuchang.blog.caixin.com图标德川幕府财政崩溃研究_端木迅远.pdf496.4K · 百度网盘

以下是上念司关于江户幕府财政崩溃的观点以及其反对者引用进行反驳的古田隆彦的两篇文章。

「デフレ経済」が江戸幕府の崩壊を招いた

上念 司(じょうねん?つかさ)

1969年、东京都生まれ。中央大学法学部卒业。日本长期信用银行、临海セミナーを経て独立。金融、财政、外交、防卫问题に精通し、评论?著述活动を展开している。

学校の教科书は「时代」が変わると仕切り直しになってしまう。しかし现実の歴史は1本のタイムラインで今日までつながっている。江戸时代以降の400年を人口、経済、気温、身长の4つのデータから読み解く。第2回は「経済」について――。

※本稿は「プレジデント」(2018年2月12日号)の特集「仕事に役立つ『日本史』入门」の掲载记事を再编集したものです。

江戸幕府は慢性的に财政难だった

「江戸幕府は慢性的に财政难だった」というところから话を始めましょう。

徳川家康が天下を取ったのは、织田?豊臣时代にあまりに强力な中央集権化が进められたのと、朝鲜出兵など戦争続きで各国が疲弊した反动で、有力诸侯が「もう领地や富の夺い合いは止め、现状维持でいこう」と「なあなあの体制」で结托したからでした。

その结果、徳川幕府は国土の4割弱の领地しか持てず、そこからの税収で全国の外交と防卫を担うことになりました。それでも、佐渡や伊豆の金山を押さえていたので、当初は余裕で财政が维持できたのです。掘れば掘るほど金が产出できるのは、今でいう金融缓和をしていたのと同じです。

しかし、金の埋蔵量は3代将军?家光の顷には枯渇し、财政は次第に逼迫していきます。4代将军?家纲は600万両を相続しますが「これを使い切ったら终わり」という大ピンチ。しかも江戸に「明暦の大火」(1657)が起こり、复兴に多额の出费を强いられます。5代将军?纲吉が就任したときには、幕府の资产は100万両を切っていたとも言われます。

家康による天下统一を象徴する庆长小判は金15グラム+银2.8グラムで94年间も使用される。荻原重秀は庆长小判2枚につき银を17.3グラム加えて元禄小判3枚を造る画期的な「改鋳」を行い、财政を立て直した

江戸幕府は「通货発行益」の「発明」で200年を乗り切った

破绽がいよいよ目前に迫り「いよいよもうダメだ」となったとき、奇迹の金融政策通が现れます――勘定奉行?荻原重秀。彼は、纯度86%の庆长小判から纯度57%の元禄小判を造る「元禄の改鋳」(1695)を行ったのです。

庆长小判2枚から元禄小判3枚が出来、かつ新旧小判の交换レートは1対1。货币量は1.5倍に増え、増加分は幕库に入ります。幕府の财政は瞬く间に改善し、500万両もの黒字に転じました。いわゆる「通货発行益」の「発明」により、江戸幕府はその后の200年を乗り切ったと言っても过言ではありません。

ところが、纲吉没后に重秀は6大将军?家宣の侧近、新井白石に失脚させられます。重秀の功绩を妬む白石は7代将军家継のとき、なんと元禄小判の金含有量を庆长小判の水准に戻す「逆鋳造」(正徳の改鋳?1714)を行ったのです。これは今でいう「金融引き缔め」にほかなりません。市中に出回るお金が减り、幕府は再び财政难と景気低迷に见舞われました。

吉宗が金融缓和策をとったら东アジア覇権を夺っていた

「お金がないならお金を増やせばいいなどというのは、まったくもって賎しい策なり。懐事情が苦しいならまず无駄遣いを廃し、节约に励むべきである」

あれあれ、どこかで闻き覚えのある台词ではないですか? 日本の経済史はここから现代に至るまで、景気低迷が続き「いよいよもうダメだ」となると金融缓和?积极财政派が现れて穷地を脱し、しかし本格回复しないうちに金融引き缔め?紧缩财政派が复活して経済の活力を削ぐ愚策を缲り返すことになるのです。

さて、家継が早逝して8代「暴れん坊将军」吉宗が就任すると、白石は真っ先に追放されるのですが、吉宗は経済失策の原因が金融引き缔めにあるとは见抜けず、质素倹约(紧缩财政)という明后日の方向に励んでしまうのでした。

吉宗は20年もあの手この手で财政健全化を図るのですがうまくいかず、万策尽きて大冈忠相(大冈越前)の忠告を闻き入れて「元文の改鋳」(1736)を行います。金融缓和の効果は绝大でした。あっという间に财政が改善し、景気が好転したのです。

もし、吉宗が就任直后から金融缓和策をとっていれば、2年で経済再建を终えていたでしょう。そうすれば、当初英国よりも强大だった军事力をもって、东アジアの覇権を夺えるくらいのことはできたはずなのです。

ところで、江戸时代は国(幕府や诸藩)が苦しかったから庶民も饥えていたかというと、决してそうではありません。

几度かの大饥馑は别として、庶民はどんどん豊かになっていました。

百姓は年贡を米で纳めますが新田开拓や干鰯(肥料)の普及等で、稲作の负担は格段に减りました。空いた时间と労力で野菜、砂糖、芋、绢、纸、各地の特产品が作られるようになり、それを商人が全国各地に流通させ、异国との密贸易で财を成す者も出てきました。江戸时代は身分差别と锁国制で庶民が虐げられてきたなどという、教科书の记述は嘘。庶民は自由な経済活动を讴歌していたのです。

逆に、武士は「石高制」で年贡や俸禄を米で受け取り、それを市场で売って现金を得ていました。生产量は増えているので米価は上升しませんが、他の物品は庶民経済の活発化に伴って上升したので、武士は相対的にどんどん贫しくなっていったのでした。

财政难のたびに商人から借り入れ、担保に年贡の徴収権を取られる藩もあとを绝たなくなりました。幕府がもしその気になっていたら、藩の借金の肩代わりと引き换えにその领地を接収して幕府の财政基盘を强化するとか、民间のパワーを取り込んで幕府主导の藩政改革を行うチャンスもあったのではないかと思います。

経済を蔑ろにした江戸幕府は倒れるべくして倒れた

ところが幕府は、最后まで现状维持?既得権益の死守に明け暮れてその机を逸してしまいます。金融引き缔めと紧缩财政は自由経済で民间が力を付けることをよしとしない、官僚层の抵抗であるとも言えます。これもまた、现代に通ずるところがあるのではないでしょうか。

そうしているうちに幕府はさらに弱体化、人心は离れていきます。欧米列强からは开国を迫られますが、もうこれを打ち払う力はありません。能力ある人を生かせず経済を蔑ろにした江戸幕府は、倒れるべくして倒れたのです。

▼米価安の诸色高石高制への固执も幕府崩壊の要因

江戸时代の米一石の価格推移

幕藩体制は「石高制」で、武士は给料として受け取った米を市场で売って现金に替えていた。新田开発や农机具?肥料の改良で米価は安定していたが、その他の商品作物は値上がり倾向で金银銭は流出の一途。财政が限界に达すると改鋳を行って金银銭の価値を下げ(米の価値を上げる)だが、守旧派による揺り戻しがあってデフレ経済に逆戻り。この慢性的な「デフレ?レジーム」が幕藩体制の崩壊を招いたとも言える。


*一般に江戸时代の金货の改鋳( 改悪 )は「 悪事 」として教わります。

また、上念氏は幕府のデフレ政策を非难するが、

インフレ政策を取り続けたらどうなったか?

逆に幕末期のインフレが幕府崩壊の主要因の一つにもなっている。

なにやら情报操作の匂いがする。

结局のところ、幕府の财政难は米価( = 通货 )の相対的低下が原因であり

低下をもたらせたのは上记に触れられている商品経済の発达以外に

いや、以上に、人口の低下が影响してるようだ。

米価と人口の相関については以下が面白い。

「米価安の诸色高」は「モノ安のコト高」か?

古田隆彦

现代社会研究所所长?青森大学名誉教授です。応用社会学者として、人口问题、消费社会、文明论などを研究しています。

寛保~宝暦期(1741~64年)には、粗放农业生产が上限に达したという人口容量の壁の下で、いかにして安定した社会を作り出すか、ということが幕政の课题でした。

しかし、当时の幕府は吉宗政権の长期化に伴って、徐々に惰性化が进行し、さまざまな矛盾が喷出し始めていました。

银建てによる米価の変迁( 江戸时代の米価グラフ )

①経済体制では石高経済が続いており、「米価安の诸色高」への対応、つまり米価の上升と诸色高の抑制が幕政の大きな课题でした。米価は元文改鋳の后、徐々に上がり始め、1740年前后に60~70匁台を回复しましたが、その后再び低下倾向が现れていました。货币政策で持ち直したものの、実需不足がさらに进行したからです。

このため、延享元年(1744)9月、幕府は蔵米を担保とした御家人の借金帐消し令(弃捐令)を出す一方で、米価の引上げをめざして、江戸?大阪の町人に买米を命じ、さらに12月には米売买取缔のため米吟味所を设置しています。

②幕府の意向とは逆に「米価安の诸色高」が进むと、かえって町人层にはゆとりが生まれてきます。寛延年间(1748~50)になると、そのゆとりが新たな消费文化を生み出していきます。

例えば寛延元年の夏、大坂の竹本座で初演された人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」が、翌年には江戸の三座で歌舞伎として竞演され、大势の観客を集めました。

また町人の间では、歌舞伎役者?沢村宗十郎を真似た宗十郎头巾が流行し、上野不忍池畔には出合茶屋、扬弓场、讲釈场など、新たな游兴产业も出现しました。

③しかし、「米価安の诸色高」で进んだ「武家苦の町人楽」ともいうべき事态に対し、幕府は町人の奢侈行动の规制に出ました。

寛延元年(1748)3月、流行し始めていた女羽织の著用を禁止し、また寛延2年5月には、江戸町奉行が町方の妇女が菅笠の代わりに青纸张りの日伞をさすことも禁じています。

さらに宝暦2年(1752)6月には、不忍池畔の出会茶屋59轩と抱え女を置く家などを廃业させ、翌3年8月には、町方での银道具の流行をおさえるため、材料となる灰吹银や溃银などを、银座以外で売买することを禁止する达しも出しました。

④幕府はもう一方で诸色高の抑制にも努めましたが、宝暦3年(1753)は豊作となり、秋口から米価がさらに下落しました。

そこで、幕府は再び倹约令を発して奢侈を禁じるとともに、1000石以下の旗本?御家人の苦境を救済すべく、翌々年からの十年年赋の返済を条件に、彼らに贷付金を与えました。

他方、宝暦4年(1754)11月には、さらに米価を上げるため、正徳5年(1715)に出されていた酒造制限令を撤廃して、酒の生产量を元禄10年(1697)の水准へ复活させることを决めました。

この政策転换によって、新酒?寒造とも醸造は自由化され、新规営业も管辖地の奉行や代官に届け出るだけで容易に许可されるようになりました。

⑤ところが、宝暦5年(1755)の夏、奥羽地方に雪が降るという大冷害(宝暦の饥馑)が発生し、米価は一変して高腾したため、同年12月には、幕府领および诸大名の备蓄米である囲籾(かこいもみ)うち、1年分を米问屋に払い下げるように命じました。

翌年6月になっても、なお米価の腾贵が続いていたため、米问屋による买占めや高値贩売を厳しく禁止しました。だが、同年の秋は一転して豊作となり、再び米価が下がったため、必要な米の买い置きは认めるように変更しました。

このように当时の石高経済は、気候変动に伴う米価の乱高下と町人层からの需要増加による诸色高に翻弄されて、大きく揺れ动いています。

とすれば、「米価安の诸色高」とは「基本财安の选択材高」を意味しており、现代社会に置き换えれば「モノ安のコト高」现象ともいえるでしょう。

人口急减社会?寛保~宝暦期を振り返る!

2010~2060年の人口急减社会は、农业后波の寛保~宝暦期(1741~64年)にほぼ相当し、人口减少への対応について、さまざまな试行错误が続く时代となる、と述べてきました。

この时代の社会の特性については、电子本『平成享保?その先をよむ』やブログ「平成享保のゆくえ」で详しく述べていますが、要点を再掲してみましょう。

寛保~宝暦时代の人口( 1730~65 )

① 当时の人口は延享元年(1744)の3138万人から、寛延3年(1750)の3101万人を経て、宝暦12年(1762)には3111万人と停滞しています。

② 政治状况を振り返ると、8代将军徳川吉宗の将军引退から、9代将军家重の侧用人?大冈忠光の活跃から死去までの时期に当たります。延享2年(1745)9月、吉宗は长男家重に将军职を譲って引退しました。まだ62歳の顽健な身体であったにもかかわらず、あえて引退を表明したのは、人心を一新するためでした。

③ 歴史学者の奈良本辰也は「吉宗の30年に近い治世は、次第に一般から饱きられようとしていた。刑法の改正について、また倹约令の细かい施行について、あるいは検地?山林开発などのことについて、さまざまな批判が起こっていた」と述べています(『日本の歴史17?町人の実力』中公文库?1974)。

④ 同じく歴史学者の大石慎三郎も、第1は「なんといっても30年もという长い治世であり、吉宗政権に対する饱きもけっして无视できぬものであった。このあたりで人心を一新しておいてからその完成にとりかかる」ためであり、第2は「不肖の嗣子家重の地位を、自分が元気なうちに确立しておいてやりたい、という亲心が强く働いていた」と指摘しています(『田沼意次の时代』岩波书店?1991)。

⑤ このことを傍证するのは、翌10月、経済政策の実质的主导者として、吉宗政権の后半を支えてきた胜手挂老中?松平乗邑を突然罢免したことです。急速に権力を伸ばしてきた乗邑を排除して、政治の一新を天下に示し、同时に将军亲政を取り戻して、家重への安定的な譲渡を狙ったのです。

⑥ 11月2日、家重は9代将军に就任しました。しかし、彼は生来の病弱に加えて、言语が不明了であったため、吉宗はなお大御所として后见に努めざるをえませんでした。ところが、こうした権力の二重构造が、家重をして、ますます政治から远ざけることになりました。

⑦ 延享3年(1746)10月、家重の意志を取り次ぐ者として、小姓组番头格?大冈忠光が御侧御用取次に任命されます。大冈は知行300石の旗本の长男で、南町奉行?大冈越前守忠相の远縁に当りますが、享保9年(1724)8月、16歳で将军家世子?家重の小姓に抜擢されて、西の丸へ入り、家重の言语を理解できる、唯一の侧近として仕えました。この特异な能力が认められて、延享2年、家重が将军に就任すると、小姓组番头格式奥勤兼帯御侧御用取次见习となり、さらに翌年、御侧御用取次に升格したのです。

⑧ 寛延3年(1750)2月、幕府は5回めの诸国人口调查を実施して、现将军の威光を确かめましたが、翌宝暦元年(1751)6月、吉宗は68歳で没しました。吉宗の腹心であった大冈越前守忠相もまた、同じ年の12月に75歳で亡くなっています。

⑨ このため、政治の実権はようやく家重―忠光ラインに移りましたが、家重の言动が不明确であったため、政権の実势は忠光に移りました。宝暦元年、大冈は上総国胜浦藩1万石の大名に取り立てられ、同4年、5千石加増されて若年寄に进み、宝暦6年(1756)5月には侧用人に就任して、さらに5千石加増され、合计2万石となって、武蔵国岩槻藩主に任じられています。

⑩ こうして、宝暦10年(1760)4月に52歳で死去するまでの约10年间、実质的な执政となりました。忠光自身はかなり谦虚で慎重な人物であったようですが、侧用人の役目は、常に将军の傍らにあって上意を下达することでしたから、次第にその威権が老中をしのぐようになりました。このため、吉宗が一旦は廃止した侧用人制度を复活させ、次の时代に田沼意次が登场する土壌を形成していきました。

以上のように、寛保~宝暦期(1841~64年)の政治状况は、人口の急减期にも関わらず、享保改革路线の终焉と傀儡政権の诞生という、まさに试行错误の时代でした。

経済や社会の动向をさらに详しく眺めていきましょう。


原因有很多,我个人再提一个观点:德川幕府时期面临的财政困难,本质上是幕藩体制的必然后果,留坑。


1是幕藩体制,2是岛国环境封闭。

先说这个幕藩体制。日本多山林很容易形成割据。藩高度独立一旦发展壮大就会威胁幕府统治。幕府解决割据的办法就是限制藩的经济发展。只要足够穷就组织不了有效的反抗力量。像什么闭关锁国,矿产直营,产勤交代都是为了限制藩的发展,这种思想就形成了重农抑商的发展纲领。

幕府剥削全国的藩,地方各藩就越来越穷。而幕府集中了大量财富之后就没有了财富增值的动机,他们面临的问题和王多余一样就是怎么花钱的问题。所以幕府生活骄奢淫逸,江户经济异常发达。日本生产力本来就不高还玩命限制发展,好东西只能进口,所以长期贸易赤字比如财政危机。

这种自残型统治方法有个很大的问题,那就是随著自己衰败邻国就会过来吞并。偏偏日本是个岛国地理环境封闭没啥能威胁他的邻国。所以德川幕府能维持300年。直到后来黑船来袭打破了封闭环境,幕府就很快被推翻了。


泻药。江户时代实行金银本位。金矿银矿到江户中期基本枯竭,米价没有提升,导致收入下降。支出方面对外贸易一直赤字,日本缺乏出口商品,反过来茶,绢,棉布,糖等等进口需求很大,所以金银大量流向海外,主要是清国。自然灾害,江户火灾也一次次打击财政。幕府的对策主要两项,第一降低货币纯度,这种慢性毒药古今中外都有人用,效果就是虽然可以临时续命但会导致inflation。第二是开发新田,既然矿山靠不住只能靠增加大米产量来增加收入。可是日本国内市场有限,米量增则米价降,靠卖米缓解财政效果有时是负面的。


另外还有预备性质的武士,乡士人口数量的增加,造成财政和维持社会治安的支出增大。


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